テクノロジーが益々高度かつ複雑に進展していくであろう今日の情勢において、デジタル化の波に乗れるか乗れないかは、国や企業の未来を左右する大きな課題として認識されつつあります。
これはもちろん個人にも当てはまることであり、しばしばデジタル・デバイド(情報格差)という文脈で話題になることがあります。
テクノロジーが進化すれば必ず起こりうる格差ですが、果たしてこのデジタル・デバイドも含めて、格差というのはどれくらい深刻な問題と言えるのでしょうか。
ちょっとこの話題に興味を持ち、考察してみましたので、今回はデジタル・デバイドについて考えたことを書き記したいと思います。
なお、今回、論じるのは、国家間や地域間のデジタル・デジタルではなく、個人間のデジタル・デバイドになります。
いつの時代もテクノロジーの進化は止まらない
デジタル・デバイドという言葉が生まれるより以前から、テクノロジーは常に進化を遂げてきました。
いつの時代も、新しいことにいち早く順応できるものとそうでないものの差というものは、程度問題はあるにせよ、あり続けたはずです。
つまりデジタル・デバイドは、昔から常に起こり続けているテクノロジーに関する個人間ギャップをデジタルの視点から定義づけた、古くて新しい概念と言えるでしょう。
テクノロジーは進化すると、それを使いこなすためのスキルが必要になります。
一部のアーリーアダプターが、敏感に時代を感じ取って、「これはくる」と言い始めると、メディアにも次第に火がつき出し、そこから広く一般の人にも知れ渡ります。
このときテクノロジーのインパクトが大きければ大きいほど、現状とのギャップが取り沙汰され、不足感をあおるような見出しがニュースなどで躍ります。
一度トレンドになると頻繁にメディアに取り上げられるようになり、ときに実態と乖離して大きな潮流になります。
こうして一つのブームが形成され、ネコも杓子も飛びつくようになるわけです。
特に子供の将来に敏感な親世代は、新しいテクノロジーが勃興すると、こぞって我先にと我が子をスクールに通わせようとする傾向にあるように思います。
一生懸命走っていないと時代に取り残される気がして、皆、一斉に駆け出すわけです。
テクノロジーの進化によるギャップは一時的
私たちが忘れてはならないのは、テクノロジーは私たちのスキル面にも恩恵をもたらすということです。
つまり、テクノロジーを知っていて、扱うスキルを持っている人間は一時、その先行者利益を享受しますが、ニーズがあるものであれば、段々と普通の人間にも扱いやすいように工夫がされていき、やがては誰でも扱えるようになります。
そこにニーズがある限り、ギャップはいつまでまギャップのまま放置されているわけではありません。
なぜなら、ギャップに対するニーズはビジネスになるからです。
ギャップ的なスキルは陳腐化する
昨今はプログラミング教育への関心が高まっています。
今の子供たちは将来、どんな職業につこうが、プログラミングは必須であると言うかのような論調まであったりしますが、はたして、本当にそうでしょうか。
私は、プログラミングに必要な論理的思考力はいつの時代にも必要だとおもいますが、プログラミングそれ自体はそれほど必須ではないように思います。
なぜなら、テクノロジーは普及していくにつれ、それについて考えなくても、誰でも使えるようになっていくからです。
かつてタイピストという職業がありました。
タイプライターが登場したころには、タイプライティングというのは特殊なスキルだったわけです。
その後タイピングは、タイプライターの普及、ワープロの登場と普及、そしてパソコンの登場た普及という時代の中で、ビジネスに必須のスキルとなりました。
ただ、最近ではスマホのフリック入力や、音声による文字入力機能も登場しています。
時代がもう少し下っていけば、もうキーボードによる入力は主流ではなくなるかもしれません。
つまりタイピングとは、テクノロジーの勃興によって起こった、ギャップ的フェーズ(過渡期)における一時的なスキルだった可能性があるわけです。
これは手段と目的で考えれば単純な話で、ようするにキーボードは自分の考えた文章を紙なりディスプレイ、もしくなりに表示または記憶媒体に記録するための手段であり、同じ結果を別のより簡単な手段でできるのであれば、それでもいいということです。
ただし、ギャップは昨日今日で消えるものではなく、また政府や企業、個人の努力なしにはなくなりません。
また時限付きであるとはいえ、このギャップこそが、ビジネスの種でもあるわけです。
デジタル・デバイドもテクノロジー進化の波の中で現れては消える泡であることを理解しつつ、対応しましょう。
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ひとことポイント
・ギャップに商機を見出すか、ギャップを捨てて根源的なところを狙うかを考えよう
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